DOS/V

【1990年10月27日 東京・秋葉原】

この日、秋葉原のある店の奥で、二人の男が祝杯を上げていた。日本IBMでDOS/Vパソコンの製品企画を担当する竹村譲と、大和研究所のアーキテクト(基本設計)の羽鳥正彦である。

二人にとって、今日は特別な日であった。その日の午後、日本IBMは「5535-S」というラップトップを発表し、その専用OSとして「日本語IBM DOS Ver.J4.05/V」が搭載されたのだ。

羽鳥が3年をかけて開発したこの初代「DOS/V」は、彼らにとって「最後の勝負」であった。「きっと流れが変わる」——二人はそう信じていた。

ラップトップ5535-Sに載った初代「4.05」

DOS/Vは1990年10月27日、「5535-S」というマシンのオペレーティングシステムとして発表された。初代のバージョンは「4.05」である。

この5535-Sというマシン(写真1)は、バックライト付きの液晶を使用したラップトップのパソコンであり、CPUには80286を使用していた。日本IBMでの位置付けは、法人向けの汎用機の端末であり、個人ユーザーの興味を惹くような製品ではなかった。

だが、DOS/Vが日の目を見るに至ったのは、このマシンが法人向けであったことが大きく影響している。「5535-S」というマシンでなくては、DOS/Vが世に出る可能性はなかったのである(写真2)。

「潜水艦」プロジェクトの最初の挫折

VGAを日本語化するというDOS/Vプロジェクトが、当時副社長であった三井信雄のゴーサインを受けてスタートしたのは、1989年7月のことである。「疾風」を意味するコードネームが付けられた。プロジェクトリーダーを務めたのは、日本語DOS開発担当であったSである。

しかし、「VGAを日本語化する」という試みは、そのプロジェクトがはじめてではなかった。実はこれが3度めのプロジェクトであり、これまでの二度はお蔵入りになっていたのだ。

当初からこのプロジェクトに携わり、推進者であった羽鳥は、その浮き沈みになぞらえて、これを密かに「潜水艦」プロジェクトと名付けている。

「ふだんは水中深く潜行しているが、機をみて浮上する。でも形勢が悪くなるとまた潜行して、時期を待つ。結局、どさくさにまぎれて一気に上陸(発表)しましたね」(羽鳥)。

最初のプロジェクトは、DOS/Vの発表をさかのぼること3年余り、1987年10月にキックオフされている。この年、米IBMからはじめてVGAを搭載したPS/2 (80386、マイクロチャネル)が発表され、日本IBMでもこれを受けて同年9月、やはりVGAを搭載した5570(写真3)を発表している。

この5570はPS/2 model 70に専用の日本語ディスプレイ・アダプタを追加したもので、ソフトウェア的には従来の5550マルチステーションと互換性を持つDOS-K Ver.3.3を搭載していた。

この発表直後、日本語ディスプレイ・アダプタを追加せず、VGAのみで日本語を表示するもうひとつのDOSの開発が密かに進められた。これが、DOS/Vプロジェクトの発端である。

この時はまだ、日本語拡張部分をデバイスドライバで切り離す設計にはなってはいなかったが、VGAの640×480ドットのグラフィックスモードを使い、16ドットフォントをイメージで表示するというコンセプトはすでに確立されていた(画面1)。

結局このOSの発表が見送られたのは、専用のアダプタを使用するDOS-Kと比較してパフォーマンスが低いことと、既存のDOSと互換性がなく、動作するアプリケーションが皆無だという理由からだった。

ひとつのマシンに2つのDOSはいらない。わざわざハイエンドのマシンに遅いDOSを載せることもない。また、市場にVGAを搭載したマシンがあまりない時期でもあり、出荷してもうまくいかないなどと言われてプロジェクトは中止することになった。

「潜水艦」は、最初の潜行に入ったのである。

機能強化されたが2度目もまた却下

次のプロジェクトは、最終的に「5535-M」(写真4)として発表された。ポータブルPCの開発に付随したものであった。

この開発が始まったのは、半年後の1988年3月である。この「5535-M」は、日本IBMではじめて液晶表示を採用したラップトップ型のPCで、そのころ一世を風靡した東芝のJ-3100への対抗機として企画された。

FDDとHDDを内蔵し、AC電源を使用して約4kgというものであったが、この5535-Mに搭載するDOSの選択は極めて難航した。

当時は表示装置のLCDの解像度をどうするかによって、DOSの選択が決まった。5550マルチステーションの16ドットモデルと同じ720×512ドットという解像度を選べば、DOS-Kに落ち着く。VGA標準の640×480ドットにすれば、VGA-DOS、すなわち先のプロジェクトでお蔵入りになった「DOS/V」である。

ハードウェアのコストから見れば、当然640×480ドットのほうが優れている。だが、困ったことに、DOS/Vには動作するアプリケーションがなかった。パーソナルユースが目的となるJ-3100対抗機では、汎用的に動作するソフトがなければ、所詮勝ち目がない。

結局5535-MはDOS-Kを採用することで決まり、羽鳥らの開発したDOS/Vは前作より機能強化されていたが、却下された。2度目の敗北である。

しかし、この頃から5550シリーズがVGAを標準搭載したPS/55に切り換わってゆき、次第にDOS/V誕生の条件が揃っていく。

640×480のVGA採用で再び「DOS/V」が浮上

5535-MというポータブルPCは、ノートブック型パソコンへの「過渡的」なマシンだった。

しかし、大きな問題があった。720×512の液晶である。この解像度は特殊なものであり、将来的に見てコストおよび供給の面で弱点があることは、日本IBMの首脳もわかっていた。

それゆえ、1989年に開発が始まった後継機の5535-Sでは、640×480のVGAを採用することが決まった。この頃には、5550シリーズからPS/55への製品ライン切り替えもほぼ終了しており、同社全体としてもVGAを受け入れる環境が整っていた。

VGAにすればコストも削減できるし、小型化への道も開ける。VGAの上位の解像度としてXGAの開発も進んでいたし、VGAモードを基本に置くWindows3.0の概要もこのときすでに見えていた。

液晶を640×480にすれば、DOSもそれに合わせたものが必要になる。こうして白羽の矢が立ったのが、再び水面下に潜っていた「DOS/V」である。

ここで問題があるとすれば、5570で見送りの要因になった「動作アプリケーション」の有無である。

しかし、思わぬ条件がDOS/Vに味方した。それは、5535-Sが個人ユースではなく、法人向け機種として位置付けられていた、ということである。

PCのマーケティング担当をしていた竹村が、やはり法人ユース主体になっていた5535-Mについて調査したところ、使われているソフトは3270/5250などのホストコミュニケーション系のソフトウェアと、一太郎、花子、Lotus 1-2-3、マルチプラン、マルチツールチャート、それにIBMのDOSワープロぐらいのものであった。

つまりこれら7本あまりのソフトを開発すれば、法人ユースに限定する限り、まったく新しいDOSでも事足りるわけである。逆に言えば、DOS/Vを出すとすれば、このマシンしかなかったのだ。そして、いずれDOS/Vを個人用パソコンのOSとしてリリースする日のために、ソフトを1本でも多く揃えておくという意図も秘められていた。

「これが最後のチャンス」社内の反対を押し切る

この時期にDOS/Vプロジェクトにかかわっていた人間は、DOS/Vを「企業向け端末マシンのOS」にとどめておく気など毛頭なかった。

ごく一部の人しか知らないことだったが、羽鳥も竹村も、当時から、このDOS/Vを最終的に個人市場をターゲットにした製品として世に送り出すことを狙っていた。「企業向け端末マシンのOS」というのは、あくまでも「DOS/V」を世に出すための方便であり、彼らは、DOS/Vで、98全盛の日本のパソコン市場に一泡吹かせようと最初から考えていた。

この「5535-S」の話と相前後して、DOS/V搭載のノートパソコンを出すという計画が進められた。竹村たちは、積極的に社内での根回しを始めた。

まず、アタックしたのが、もともとフィールドのシステムエンジニアでアーキテクチャーに強い営業推進担当の長野祐三 (現パーソナル・コンピューター事業本部 営業担当本部長)。そしてPC営業開発本部長の堀田一笑(現パーソナル・コンピューター事業本部 営業本部長)の2人のキーマンだった。

当初、16ドットで表示フォントが汚くなることに多少難色を示していた堀田は、その頃すでに羽鳥が開発していた「DOS/X」(最終的にV-Textになった)による24ドット表示を長野や竹村に説明され、「いずれこれをサポートする」という条件付きで納得した。

堀田、長野、そして三井といった当時の幹部は、自分たちが納得していれば、周囲にどんな反対があろうとも押し伏せるだけの「勇猛さ」を持っていた。これが、これまでの3度の「敗北」と異なるところである。反対する幹部を、堀田らが電話で説得する姿も、珍しいものではなかった。

それでも強硬な反対が、社内から出た。大和で開発を続けるSたちにも、反対の声が押し寄せた。特に主流のハイエンドモデルを担当しているグループは、ほとんどが反対にまわった。Sらはそのたびに呼ばれて、説明に出向いた。

このとき、大和にあって、こうした声と戦い抜いたのが、企画のKであった。彼はいまでもPC/XTを使っている猛者であるが、最後までDOS/Vの将来を信じて疑わなかった。「5535-S」が発表される10日ほど前にも、ある有力幹部が「おれが絶対つぶす」と怒鳴り込んできた。竹村も羽鳥もKも、これでまただめかとヒヤッとしたというが、「これがわからん奴は辞めてしまえ」と三井や堀田が怒鳴り返した。

何度もボツになりかかり、強硬な反対にさらされたプロジェクトだけに、出荷の報を聞いても、にわかには信じられないメンバーもいたという。

どんなに猛烈な反対を受けても、竹村や羽鳥らがこのプロジェクトを守り抜こうとしたのは、これが日本IBMの、パソコン事業における最後のチャンスだと知っていたからであった。なぜ、そう思ったのか。それを知るには、さらに時を戻し、今から10年前のJXにまで遡らなければならない。

【1985年秋 日本IBM大和事業所】

羽鳥は迷っていた。手塩にかけたマシンは開発中止になってしまった。戦わずして敗れるのは、どうしても納得がいかなかった。いっそ辞めてしまおうか・・・・・・。

目の前のマシンを眺める。勝てるはずのマシンであった。だが、300台ほどのプロトタイプを製造しただけで、廃棄処分が決まった。

「このまま辞めれば、一生負け犬だ・・・・・・」

このマシンは、いまでも羽鳥の手元にある。羽鳥は、DOS/Vの最初のプロトタイプのコードを、このマシンに打ち込んでいる。

DOS/Vのルーツ=JXは商業的に大失敗

DOS/Vにルーツを求めるとすれば、日本IBMがはじめて個人市場を意識して投入したIBM JXがそれにあたる。日本で初めての本格的なバイリンガル・マシンであったから、というだけではない。

さまざまな趣向を凝らしながら、商業的には大失敗に終わったJXに携わった人たちが、ところを変え、立場を変えて、DOS/Vの誕生に大きな役割を果たしたからである。

IBM JX (写真5)は、米IBMが家庭向けに開発したIBM PCjrを受けて、日本IBMが1984年11月、日本市場に投入した。いまから10年ほど前のことである。

JXは、CPUに8088を4.77MHzで使い、メモリが標準で128KB、そしてその頃はまだ珍しかった3.5インチディスケットを2基搭載していた。キーボードと本体の間は、赤外線コードレス接続を使い、スーパーインポーズをサポートするなど、斬新な試みがなされていた(写真6)。

ソフトウェアとして用意されたのは日本語DOS2.1とPC-DOS2.1(画面2)だ。ビデオに特色があり、CGAを日本語化した640×200ドットのモードと、5550の下位モデルと互換性を持たせた720×512ドットのモードを備えていた。今ではあたりまえの技術になっているが、このモードを生かすために、日本IBMは日本初のマルチスキャンモニタもあわせて発表している。

このJXは、本体前面下部に差し込むROMカートリッジでBIOSを切り換えるという斬新な手法で、英語モードと日本語モードをサポートするバイリンガル・マシンであった。英語カートリッジを入れれば、PCjrと完全にコンパチブルだった。

この時、バンドルされたJX DOSを開発したのが、のちにDOS/Vのプロトタイプを描いた基本設計の羽鳥正彦と小型ワークステーション企画のMの二人である。

JXでは、CGAを利用して640×200ドットの画面に漢字を表示させていたが、おそらくこれが英語のマシン上に日本語を表示させた初の試みだろう。DOS/Vは、このJX DOSから10年の歩みを始めたといっても過言ではない。

しかし、日本IBMが巨額の広告費をかけ、満を持して投入したこのJXは、商業的には大失敗に終わる。

本家PCjrが米本国で不発だったことを考えればもともと8088というCPUがアンダースペックだったともいえるだろう。

しかし、それ以上に、日本IBMのNECに対する敗北を意味した。

もともとJXは、NECのPC-8801シリーズをターゲットに開発されていた。同じ8ビットマシンとしてみれば、JXに利があるはずだった。ところが、ふたをあけてみると、比較の対象とされたのは16ビットマシンのPC-9801であった。

JXの販売台数は、5万台ほどであったと伝えられる。売れ残ったマシンは社員に配られた。

この敗北は、日本IBMにさまざまな意味で傷を残した。JXの製品番号である「5510」が、不吉な番号として永らく欠番になっていたということに、その時日本IBMが受けた傷の深さがうかがえる。

AT互換機のJX-II(Hudson)も開発中止に

このJXの後を受けて開発されたのが、翌年のJX-II(Hudson)である(写真7)。

JXがPCjrの互換機であったように、JX-IIはPC/AT互換機として設計された。

PC/AT(写真8)はその前年、米IBMから、IBM PC(写真9)の後継機として発表されている。

このJX-IIは、実に斬新なマシンであった。CPUは80286だが、この時代、まだ誰もインプリメントしていなかったローカルバスグラフィックスとBITBLTを装備しており、日本語モードと英語モードを本体側面にあるBIOS ROMの切り換えスイッチ(写真10)で切り換えるという方式を採用していた。CPUさえ486に換えれば、いまでも十分通用しそうなスペックである。

JX-II用に開発されたDOSは、JX DOSを拡張したJX-II DOS (画面3)で、最終的なバージョンは3.1だった。286というCPUではスピードが十分ではなかったので、テキストモードも持ってはいたが、グラフィックスモードに漢字を書いた時の、BITBLTによるスクロールは高速だった。

ハード面ではJXに上位互換性を持ち、ディスプレイなどの周辺機器もそのまま利用できた。JX-II(Hudson)はJXの敵をとってくれるはずであった。

だが、結局このマシンは発表されずに終わった。

理由は主に2つある。ひとつは、JXの敗北に自信を失っていた上層部が、製品投入に逡巡したことだ。

そしてもうひとつは、JX-II(Judsoon)が、当時としてはあまりにもハイスペックだったということがある。すでに述べたように、当時は下位機種、個人向け製品は、スペック上、上位機種を超えないということが不文律としてあった。ハードウェアを付加せずに日本語を表示させるには、ハイスペックであることが絶対条件となる。だが、それが、他の部門からクレームを付けられることになる。

開発中止が決まったと知った時の、開発陣の失望は深かった。日本IBMでの個人向けパソコンの開発は、この時から長い潜伏の年月を重ねることになる。

ATの日本語化の動きとIBMパソコン部隊の集結

それ以後、しばらくの間、日本IBMは鳴りをひそめる。そんな中で1987年頃になると、PC/ATの日本語化の動きが出始める。東芝のJ-3100と、AXである。この頃はまだEGAしかなかった時代で、解像度は640×400ドットであった。

日本IBMでも当然、EGAを日本語化したDOSを試作していたが、開発のゴーサインは出なかった。

だが、この頃、おもしろい動きが社内で起こる。現在、日本IBMでパソコンの企画・営業を担当するパソコン部隊が、徐々に集結を始めるのである。

竹村と萩原茂樹(現パーソナル・コンピューター事業本部 推進)は、その頃滋賀にある日本IBM野洲工場に勤務し、関西でパソコンクラブを催し、98をホストにしたパソコン通信などを手掛けていた。だが、彼らは、ATの本家であるはずの日本IBMが、いっこうにパソコンを出さないことに不満であった。

そこで、「JXはなぜ失敗したか」という文書を社内向け企画書として提出した。竹村はこれを、わざわざMacPaintで書いた。JXではこんなことはできまい、という彼一流の皮肉である。

これが、当時「PS/55」などワークステーション部門の責任者であった堀田らの目に留まった。堀田はパソコンにもう一度参入することを考えていた。

「こいつを呼んでこよう」——この竹村を呼び寄せたことが、現在のパソコン部隊を集結させることになる、89年9月に始まる同社の社内公募制度の発端である。

まず、竹村が堀田のもとに移動した。大きな組織では、現場レベルで自由に人を動かすことなど、ふつうは認められない。竹村に続いて萩原がパソコン部隊に正式に移動するまでには2年を要した。だが、認められるまでの間、萩原は「出張扱い」でビジネスホテル暮らしをしながら、パソコン部隊に参加していた。

堀田は、100人以上の部下を擁するワークステーションの営業責任者から、わずか8人でスタートするPC市場開発の責任者に転出する。

教育市場向けに出された5530-Z

堀田らの部隊が、ひさしぶりの個人市場向け製品として出したのが5530-Zである(写真11)。おもに教育市場でのルートセールス用として企画されたマシンだった。

技術的にはPS/2 model 25の筐体にmodel 50のマザーボードを入れただけという安直なマシンではあったが、ディスプレイ一体型というのが新鮮であった。CPUは80286、その後386SXに強化され、5530-Uとして受け継がれていくマシンである。

コンパクトで教育市場では好評だったが、個人市場へ食い込むまでには至らなかった。個人市場ではすでに98が圧倒的なシェアを持っており、とても対抗できるような環境ではなかったからだ。

ところで、この5530-Zは教育用に開発されたため、一体型マシンでありながら、二人で画面を見られるように、筐体がわずかだけ左右に回転するようになっている。この微妙な角度を実現するため、竹村はなんどもプロトタイプの仕様を変更した。

そのたびにプロトマシンにやすりをかけさせられたのが、大学を卒業後、藤沢工場に配属されていた中林千晴である。彼はその後、社内公募で竹村と同じ部署に配属された。昨年発売された一体型パソコン「PS/V Vision」の製品企画を担当したのが、その中林である。

徒党を組んで戦うしかない!

竹村たちは5530-Zのセールスを見ていて、日本IBM一社で98に対抗することの壁の厚さを実感させられた。JXで98に敗れた大和の羽鳥やMも同様である。

98の強みはなんといっても、その豊富なアプリ資産にある。いかに優れたマシンを出したとしても、この資産だけはどうしようもなかった。

OADG設立につながる日本IBMの「オープン」をめざす考え方は、こうして培われていく。

1990年夏、丸山力(現日本IBM取締役)に、パソコン市場への参入をどうするかを考えろと命じられた竹村は、一つの文書をつくった。それには、日本IBMの選ぶべき3つの選択肢が書かれていた。

そのひとつは、パソコンから撤退すること。

そしてもうひとつは、資金提供をしてソフトハウスにアプリをつくってもらうことだった。当時の竹村の試算では、ソフト1本を開発してもらうのに必要な資金は約2000万円で、98のソフトは9000本なので、必要な資金は約1800億円となり、とても捻出できるはずはなかった。

最後の選択肢が、オープン・アーキテクチャーを旗頭に「徒党を組んで戦うこと」だった。それは、1981年、米国でIBM PCが発表された時代に戻ることでもあった。

アーキテクチャーに明るい三井と丸山は、当然のごとく最後の選択肢を選んだ。

その時すでに、「オープン」戦略が日本IBMの競争相手を増し、自らをも傷つける刃にもなりうることは十分考えられた。「DOS/V」に始まる新しい路線が、その頃の小型機部門を支えていたPS/55に大きな影響を及ぼすであろうことも予測できた。

だが、三井、丸山、あるいは堀田、長野といった当時の小型機部門のリーダーたちの出した結論は「それでもやるしかない」留まっていればジリ貧になることは、目に見えていた。

5535-SにバンドルされるDOS/V、そしてそれに続くPS/55note開発へのコンセンサスが、こうしてまとめ上げられていった。

【1990年冬 東京・要町】

初代「DOS/V」の出荷を翌日に控えたその夜、竹村は、当時まだ豊島区要町にあった西川和久(O.F.Computing社長)の家を訪れていた。「DOS/V」を見てもらうためである。二人は大阪にいた頃から旧知の間柄だった。

西川の家には、「日経バイト」の編集者であった中沢興也(現日経パソコン副編集長)、SIMの開発者の田中 (psh)、Vz Editorの開発者の兵藤 (c.mos) ら、IBM PCをよく知るパワーユーザーたちも来ていた。

西川のAT互換ノートパソコンに、「DOS/V」をインストールする。漢字が表示されるのを見た西川の顔が、驚きに変わる。

「これは大変なことになりましたね」——中沢がぽつりといった。

DOS/Vが発表された直後の、市場の反応は冷たいものであった。いや、反応すらなかったといっていい。

それも無理はない。そもそも5535-Sは個人向け商品ではなかったし、すでに98、J-3100、FMR、AX、そしてPS/55と、乱立気味だった日本のパソコンアーキテクチャに、なぜまた新しいアーキテクチャが必要なのかが理解できなかったからだ。

ソフトハウスにしても、新しいアーキテクチャができるたびに移植の手間が必要になるから、いい迷惑であった。ソフト開発の依頼に行ったSらは、けんもほろろの扱いを受けた。門前払いも珍しくはなかった。社内でも、小型機部門はともかく、その他の部門の反応は冷やかだった。

そんななかで、DOS/Vの真価をいちはやく見抜き、極的に評価したのが、パワーユーザーたちであった。DOS/Vは、それ以後、パワーユーザーたちの手によって育てられていくことになる。

DOS/V普及のためにパワーユーザーに照準

コンピュータ業界は一度シェアが固まってしまうと、なかなかそれを変えるのがむずかしい。過去の資産の継承という問題が立ちはだかるからである。98に挑戦した各パソコンメーカーが、技術的には優れた製品を出しながら、枕を並べて討ち死にしたのは、結局のところ、この資産の差であった。

だから、日本IBMがDOS/Vを出した時、法人ユーザー、あるいはふつうの個人ユーザーがこれに飛び付くことはまるで期待できなかった。そこで、竹村らがターゲットにしたのが、パワーユーザーたちである。

パワーユーザーたちはまず、DOS/Vの真価を理解する力があった。優れたアーキテクチャーであれば、過去の資産がない不便も厭わず、新しいものに飛び付くだけの好奇心と冒険心を持ち合わせていた。

それともうひとつ、彼らは、企業の機種選定のキーマンであったり、あるいは、一般ユーザーにとって機種選択の相談役である場合が多かった。彼らをまず取り込むことが、普及の第一歩になると考えたのである。

DOS/Vの名付け親はネットワーカーたち

竹村や羽鳥たちが心配したのは、立ち上がりの3ヵ月であった。その時期に失格の烙印を押されれば、致命的となる。コンピュータ業界は、市場に定着し、一定のシェアを占めるようになれば、あとは勝手に膨らんでいく。

当時彼らにとって不安だったのは、DOS/Vのスピードがどう評価されるか、ということだった。その頃主流だった386のCPUでは、ソフト的に日本語表示させるには、まだ力不足だったからだ。

だが、パワーユーザーたちは、DOS/Vがもたらしてくれる「世界の広がり」を正確に見抜き、高く評価した。まず日経mix、そしてNIFTY-Serveなどのパソコン通信で火の手が上がった。

しばらくの間、「5535-S」よりも「日本語DOS Ver.J4.05/V」のほうが出荷数が多いという奇妙な事態が続いた。パワーユーザーたちが購入したのだ。

生半可な知識を持った人間がネットに速度などの不満を書き込むと、西川や内田勝也、深沢健一といったパワーユーザーたちが、すぐさま反駁した。彼らは別に頼まれたわけではなく、ただDOS/Vを育てようと思ったのだ。「日経バイト」の中沢らも「DOS/V」を積極的に取り上げ、特集を組んだ。

このDOS/Vという名称も、実はネットワーカーたちが名付け親だった。5535-S発売当時、日本IBMでは正確な呼称がなく、「VGA-DOS」「VDOS」「スラブイ」などと呼びならわしていた。だが、いよいよ個人市場向けのノートを出すという段階になって、それではまずいということになり、愛称を決めることになった。

竹村たちは、日経mixをのぞき、実際にどう呼ばれているのかを調べた。彼らが拾い上げた名前の中から、最終的に「DOS/V」を選んだのは当時、営業推進担当の長野であったが、本当の意味での名付け親はネットワーカーであったといっていいだろう。

個人ユースのDOS/V機 PS/55 Noteをリリース

1991年3月 個人用としては最初のDOS/VマシンであるPS/55note「5523-S」(写真12)が出された。A4サイズのノートブックで、今から思えば大きなノートだが、幸い好評であった。アプリも当初の目論見どおり、マシンが発売されるまでに、35本のアプリケーションが発売された。

この「5523-S」を皮切りに、DOS/Vを足掛かりにした日本IBMの個人市場参入が開始された。ユニークなマシンもいろいろと登場したが、セガと共同開発したTERA DRIVE(写真13)などは商業的には成功しなかったが、そのひとつであろう。

また、DOS/V入門機として出された「5510-S」(写真14)で、長野と竹村はひとつの仕掛けをした。すでに述べたように、この「5510」は失敗に終わったJXの製品番号であり、不吉な番号として欠番になっていた。これをあえて入門機につけたのだ。「JXの過去はこれで清算する」——彼らにとっては、そんな意味合いがあったのだ。

米IBM公認のドライバ V-Textの誕生

DOS/Vの魅力のひとつとして、24ドットの高品位表示をしたり、12ドットで多量のデータを表示させるV-Textを挙げる人も多いだろう。このV-Textは、よく知られているように、オサムの村田ヒロシらがつくった「HiText」が形になっている。

しかし、DOS上で24ドットの漢字を表示させようとする試みは、大和事業所でそれ以前から続けられていた。

その最初の試みは、Mによってなされた。1987年頃、PC/AT上で1024×768を表示する8514ディスプレイアダプタを使い、24ドット表示をさせるDOS/8514である。

このプロトタイプは、羽鳥に引き継がれ、1990年にDOS/Vが発表された時には、すでにXGA上のV-Textドライバが動作していた。DOS/Xである。

羽鳥やMは、村田らがやっていたHiTextの試みを、パソコン通信を通じて知っていた。だが、フリーソフトに彼らが口を出すべき必要もなかったので、見守っていた。

コンタクトの必要が生じたのは、HiTextドライバとアプリケーションとのインターフェイスを取り持つAPIの標準化が進められる機運が、ネット上で盛り上がった時である。

リザーブされているモード番号を使うようにこれらのドライバは書かれているが、トラブルなくこれからも“V-Textドライバ”を育てていくには、世界中のIBMで、今後ともそのモード番号が他の用途に使われない、という保障が必要だった。すでに進められていた「標準化」では、村田らも気づいてはいたが、割り当ててはまずいモード番号が使われていた。

羽鳥は電子メールで連絡を取り、その調整をすることにした。会合を持ったのは、1991年秋のデータショウの時で、会場近くの「ホテルマリナーズコート東京」だった。

京都からは村田、それに同様の試みを行っていた西川、小山隆史 (Lepton) らが集まり、カレーライスを食べながら、仕様を調整した。

この仕様は、その後羽鳥と米IBMの間で調整がなされ、V-Textは、米IBMの公認するドライバ仕様となった。なお、V-Textの名付け親は、「DOS/V magazine」編集長の來島樹とCFCの西川である。

門戸を広く開けたOADGが発足

パワーユーザーたちによるDOS/Vの支持が、ボトムアップ式の普及であったとすれば、トップダウン・スタイルの普及を目指して結成されたのが、PCオープン・アーキテクチャー推進協議会(OADG)である(図1)。

この「徒党を組んで戦う」ということは、DOS/Vを出して個人市場に取り組む上での、そもそもの基本戦略だった。

初代DOS/Vを発表してまもなく、三井は精力的に国内のパソコンメーカーを口説いてまわった。90年12月には、DOS/Vをオープンにし、積極的に情報を開示することを表明した。だが、すでにAX協議会などに加入していた国内パソコンメーカーの多くは、決して積極的ではなかった。

ようやく、91年3月11日には、富士通、東芝、日立製作所など11社を集め、OADGの発足発表にこぎつけた。「入っていただく」が基本スタンスだった。当時、汎用機部門でIBMとライセンス契約を結んでいた企業が、「お付き合い」から参加した。

OADGの歩みは当初、必ずしも順調とはいえなかった。OADG参加各社からはしばらくのあいだ「DOS/Vマシン」が出されなかったし、富士通がその後脱退するなど、ごたごたが続いた。

それでもその年の秋のデータショウの頃には、周辺機器の標準化などの話が進められるようになった。ちょうど、羽鳥らがV-Textの仕様について話し合っていた頃だ。

周辺機器の仕様統一は、その後のDOS/Vの発展に大きく寄与した。現在DOS/Vのキーボードは、101, 106、あるいはJ-3100やAXなど複数のキーボードが公認されている。これを「混乱」と見る人もいるが、当時はそこまで譲歩してでも、参加企業を増やしていく必要があったのだ。

門戸をできる限り広げておいたことが、その後のOADG、ひいてはDOS/Vの拡大につながっていく。

「Entry」でNECとシェアを争う日本IBM

その後のDOS/Vの伸長については、ここでくだくだしく書く必要はないだろう。ここにPS/55noteの発表当時、資料として竹村が作成した図がある(図2)。

当時のDOS/Vは、いってみれば、日本IBMの円の中だけにあった。それがいまどうなっているかを考えれば、このわずか3年の間に日本のパソコン市場が大きく変わったことが実感できるはずだ。

このほど日本IBMは、「PS/V Entry」という新しいシリーズを投入した。「日本IBMの無印良品」とでもいえるこのパソコンは、メディア側からみて少しもおもしろみのない製品である。ベーシックで低価格のこのモデルは、大量に販売し、シェアを稼ぐためのマシンであるからだ。

だが、日本IBMがこのようなマシンを投入できた、ということの意味は大きい。「PS/V」を発表し「DOS/V」路線を鮮明にして以来、日本IBMは常に「成功」を印象付ける必要があった。このために日本IBMのとった戦略は、「個性的なマシンを出してユーザーに好印象を与える」ことであった。これは特にノート「ThinkPad」シリーズで際立っていた。当分の間、NECに匹敵できるプロダクトシェアが占められないのであれば、ユーザーたちの心の中に占める「マインドシェア」をまず広げようというわけである。

だが、今回のPS/V Entryが狙っているのは、はっきりとプロダクトシェアである。つまり、「ごく標準的なマシン」を出しても、日本IBMは十分勝算が見込めるようになったのである。

JXの手痛い敗戦でスタートした日本IBMのパソコン事業は、このマシンをもって、NECと互角にシェアを争うことを打ち出すという転換期を迎えた。実に10年という長い道のりであった。

94年1月に発足した日本版IBM PCC「パーソナル・コンピュータ事業本部」では、97年頃には国内シェアでNECと肩を並べる、という計画を立てている。

【1993年11月4日 日本橋・ロイヤルパークホテル】

マルチメディア対応の一体型PC「PS/V Vision」が発表されたこの日の夜、「DOS/V 3周年記念」のパーティが、箱崎事業所から歩いて3分ほどのところにある「ロイヤルパークホテル」で開かれた。マイクロソフト会長の古川享らも顔を揃え、会場は人であふれていた。

3年前に今日の隆盛を予測できたか、という記者たちの質問に、日本IBM情報システム社長の佐伯は、上機嫌で「あの時点では、神様でも予測できなかっただろう」と答えた。

会場にいた竹村、羽鳥らDOS/V部隊の面々は、それを聞き、目配せをかわし、にっこりした。

神様には、想像もできなかっただろう。しかし、この日のあることを信じた人間たちがいたのだ・・・・・・。

https://hightech-lab.org/img/hatori/dosv_all.pdf

『PC-WAVE』1994年4月号,電波実験社,雑誌コード17685-4,1994年4月.より抜粋(敬称一部略)

未来のエンジニア教育に意義があると認められ、JXおよびJX-II(Hudson)はマイコン博物館にひっそりと展示、保管されています。青梅を訪れる機会があったら、ぜひ探してみてください。

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Author: hatori
メンターの羽鳥(ハトリ)です。(イラストはYoChan作) 現役のITエンジニアで、「世にない新しいものを作る」をモットーに活動しています。いつでも頭の中は新しいアイデアの事でいっぱい。守備範囲は、8080/6800アセンブラから、iPhone/Androidアプリ、Device Driver、 PHP、Python、Codex/Kiroまで、ソフトウェアを全方位でカバーします。 今まで ・DOS/V (誰でも日本語でパソコンを使えるようになった、自作できるようになった) ・ThinkPad (いつでもどこでも学びや仕事ができるようになった) ・ChipScape (てのひらサイズでインターネットが見えるようになった) ・WorkPad (iPhone/Androidで花開いたハンドヘルドコンピューティングの礎となった) ・ピークシフトPC (二酸化炭素排出の一番多い時間帯の消費電力を自動カットする発明で環境問題に貢献した) などを作ってきました。その中で特許になった技術もたくさんあります。 世にない新しいものを作ってみたい、特許を取りたい、コンピュータサイエンスやソフトウェアで世界を変えたい、チャレンジャーを力強くサポートします。 当ハイテックラボHPをmatushitaお兄さんと作っています。WEBサービスやAIを作ってみたいチャレンジャーも、いないかな? <A HREF="https://hightech-lab.org/htl/hatori/?p=43">→</A> 

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